yasunao: “ Фотоподборка (154 фото) ”
mknhrk 北畠顕家の最後の西上のポイントを線で繋いでみた。さすがに鎌倉美濃間真っすぐは無いけど、こういう勢いの道程ではあっただろう。建武4年8月11日 顕家、義良親王を奉じて西上す、是日、陸奥霊山を発す建武4年12月13日 顕家、利根川に至り、北軍を撃ちて之を破り、十六日、武蔵安保原に戦ひ、二十三日、鎌倉に入る、斯波家長拒戦して之に死す暦応1年1月2日 顕家、義良親王を奉じ、鎌倉を発して西上す、既にして宗良親王遠江より之に会し給ふ、直義、高師冬等を遣して之を拒がしむ、二十八日、顕家美濃青野原に戦ひ、転じて伊勢に入る暦応1年2月21日 顕家、北軍と伊勢に戦ひ、伊賀を経て、是日、南都に入る、北軍逆へて之を撃つ、二十八日、顕家敗れて河内に走り、義良親王吉野に逃れ給ふ暦応1年3月8日 顕家、北軍を天王寺に撃ちて之を破る、十五日、又、摂津渡辺に戦ひ、十六日、再び天王寺に戦ひ、阿倍野に敗績す暦応1年5月22日 顕家、高師直と和泉堺浦、及び石津に戦ひて、之に死すなんという駆け足。【追記】各ポイントの補足1.霊山顕家等南朝勢の東北での多賀城に継ぐ拠点。陸奥国国府とされた。多賀城が足利勢に落とされたことで、ここが国府となった模様。写真を検索すると、ロッククライミングに最適な絶景が次々出てきて、往時の南朝の苦労が忍ばれる。2.白河奥州三関の一つ。歌枕の土地として名高い。南北朝期の詳細は不明だが、恐らく東山道を行った顕家は通過したものとおもわれる。3.小山頼朝以来の名族であった小山氏であるが、小山秀朝が、中先代の乱で北条側に敗退、討ち死にし、残された子息がいずれも幼年であったことから、この時期衰退していたとされる。小山氏の元には下野方面の指揮官として尊氏から桃井直常が派遣されており、顕家の襲来に際しても、幼少の当主小山氏朝(?)と共に直常が小山城に篭り、これを迎撃したようである。しかしかなり時間がかかったようではあるが、小山城は落城。小山氏朝は南朝方に捕縛され、結城宗広の嘆願で許された。直常がどうなったのかはよくわからない。太平記ではこの後青野原合戦に参加している。小山城を落としたことで、顕家の軍勢は雪だるま式に膨張していったようだ。4.安保原小山を落とした顕家の軍勢は、その後利根川の周辺で足利勢(上杉ではないかと思われる)を次々破り、武蔵に入る。そして現在の埼玉県北部あたりの安保原で勝利し、鎌倉へ向かった。5.杉本城鎌倉への侵攻をはばむ最後の砦といった風情の小城で、元は三浦氏の城であるようだ。リターンマッチも虚しく、斯波家長はこの戦いで討ち取られ、鎌倉の足利勢は鎌倉を脱出、義詮共々三浦半島に潜伏することとなる。6.青野原海道を顕家がどう行ったのかは、さっぱり史料が出てこない。今川氏などが迎撃の様子を見せたようではあるが、どちらにしろ抜かれているようだ。一気呵成に駆け抜けた、としか言いようがない。江戸初期くらいまでの駿河から遠江は、天竜川・安倍川・大井川といった大河が氾濫するたびに地形がコロコロかわり、道も変わったことから、当時の東海道のルートの特定は不可能であるともいえるので、しょうがないな。しかし鎌倉を発してからわずか26日間で、美濃に到着しているわけで、やっぱり無茶苦茶である。第一回の上洛戦の時はこれより無茶だということを考えると、やっぱり北畠顕家怖い。青野原合戦に関しては昨日色々ツイートしたのだが「結果的に青野原の軍勢を破り、青野原を突破した」ので、顕家は青野原の戦いでは勝利したと言える。しかしこの西上が北陸の南朝勢と連動した京都奪還作戦であったことを考えると、それには失敗、敗北した、と言えるだろう。北陸勢が動けず、補給もままならなかったからこそ、北畠の拠点であった伊勢や吉野に向かうしかなかったのである。ちなみに尊氏は青野原合戦後の暦応1年2月3日、しれっと鎮西の諸氏に青野原の戦いでの戦捷を報告している。完全に負けた、と思っていたらさすがにやらないんじゃないか、と思う。7.南都・石津以降は尊氏の直属部隊(細川氏など)や西の軍勢を相手に、南都を中心に摂津などで合戦を繰り広げるものの、劇的な勝利は得られなかった。そして、徐々に疲弊し石津の戦いで敗れ討ち死にする。密度の濃い人生だが21歳であったと思うと、やはり切なくなるものですな。